ツワブキさんの闘病日記(1)頚椎後縦靭帯骨化症

2001年の発症(左手薬指の痺れ)から複数の整形外科やカイロの治療を経て、2004年に脳神経外科を受診。神経症状の原因が、「頚椎脊柱管狭窄症、頚椎後縦靱帯骨化症」と判明。2005年1月、脊髄専門医の執刀で椎弓形成術の手術を受ける。3年間も脊髄を圧迫し続けた影響で、脊髄に損傷部分が残り、その後遺症で現在も闘病中です。症状が改善されない場合、早期に専門医の診察を受けることが重要と言えます。
01年8月の発症から、05年1月手術、2月の退院後までの過去日記(回想)と、その後の経過をWeb日記に書いてくださいました。エッセイストとしての才能も魅力です。芸術家ツワブキさんもチラホラ・・・(Web日記をHTMLページに作成しました)

後縦靱帯骨化症、頚椎脊柱管狭窄症による症状 発症

  発症からカイロ治療院 (回想2001年8月〜2002年11月)  日記記入日:2005年2月〜5月  術後35日〜術後130日

 闘病日記(1)

 ▼ 2005年02月
  前口上  
  最初のシグナル
  落車のアクシデント

 2005年03月
  お遍路の延期
  悪夢の四足歩行
  神経痛のお祭り
  ご隠居さま
  リハビリ依存症
  ボス猫ドン様
  背骨の曲がる謎
 
 2005年04月
  お大師様のお告げ
  猫からの手紙
  泣きっ面に蜂
  午前10時の季節
  脂肪肝とダイエット
  はじめてのカイロ

 
 2005年05月
  あやしい話
  筍パーティ
  まじめな話
  続 猫からの手紙
  退院後の大凹凹



闘病日記(2)
  2005年6月〜9月

闘病日記(3)
  2005年10月〜
   2006年1月


 闘病日記(4)
   2006年2月〜6月


みんなの闘病記

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2005年02月
  前口上
2005/02/20 (日)

 ぼくは日記というものを書いたことがない。これは若いころに観た映画「カサブランカ」の影響であると、今でも信じているのである。この映画には、心に残る名セリフや数々の印象に残るシーンが多い。とにかくボガード演ずるリックの、男の我慢の美学にはまいってしまっていた。その当時ななめに生きていたぼくにとって、自分の生き方のベースにもなってしまったシーンがある。
リックス,カフェ,アメリカンの店内、リックとイボンヌの何気ない会話。
 イボンヌ「昨夜はどこにいたの?」 リック「そんな昔のことはおぼえてないね」
 イボンヌ「今夜会えるかしら?」 リック「そんな先の予定は立てないんでね」
これって禅の教えのようなセリフじゃないのか!。過ぎたことを思いわずらったところで、どうにもなることではない、ましてや未来を思い悩んだところで、どうなるものでもない。あるのは現在、現在を大切に生きる。いま考えれば、なんとも飛躍した勝手な解釈なのだが。それ以来は過ぎたことは忘れるようにしているし、べつに悟りを得たわけではないので、せめて、きょうとあした、長くても一週間を目安に気楽に生活している。だから子供のころに書いた夏休み日記以来、ぼくは日記というものをほとんど書いたことがない。

 闘病日記帳の話を伺ったときに、一瞬、躊躇してしまった。なぜなら、手術前なら日記をつける習慣のないぼくでも、なんとか書けるような気もするのだが。なにしろぼくは退院して自宅療養中の身なのである。しかし考えてみれば、病気の発症から手術までの起因や経緯を、きちんとまだ自分の中で整理ができていない。現在形過去日記のかたちならば、あるいは病気の経緯の全貌が明らかになるかもしれない。また書いたところで自分の手元にあるわけではない。これなら、ぼくの生き方に反しはしないだろうなどと,またまた勝手に解釈して、楽楽さんのご好意に甘えることにした。
 過去のことであっても忘れられない出来事や,痛みの経験などとゆうものは記憶の部屋のなかに、案外と収まっているものである。だから書くことは心配していないのだが、なにしろお気楽人間のぼくのことだから、日記は遅々として進まず、話の脱線しまくりが、今から少々気がかりな点ではある。願わくはこの日記のために、楽楽様が苦苦様になりませんようにと・・・案じながらの前口上。
   


  最初のシグナル
2005/02/21 (月)

  退院後21日  術後35日
 きのうの冷たい雨が嘘のように朝から陽がさしている。左手はきのうから重くうっとうしい感覚がつづいている。これは寒さの影響で筋肉が収縮するせいなのかもしれない。きょうは兄の入院の日なので午後から病院に出かける。病院では兄と弟と義姉に手術についての説明が、ちょうど終わったところであった。先生に新しい手術方法についての最新の資料をいただく。病室に行くと、なんとぼくが入院していた部屋と同じ部屋である。孫たちに囲まれて賑やかに暮らしていた兄は、はじめての入院体験からか不安げでなんとも落ち着かないようなのだ。なにやら兄の見知らぬ一面を見る思いがして、ぼくは少し笑ってしまった。

(2001年8月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 3月の銀座での個展が終わりしばらく休養してから、少しずつ部品を集めていたロードレース用のチャリを組み立てたり、以前から考えていた四国遍路歩き旅の資料収集や実行計画を、のんびり練ろうと企てていた。そんな時期に京都の展覧会への誘いがあった。団体展などあまり関心がないので辞退するつもりでいた。しかし、なつかしの京都である。8月の京都は暑いけれども観光客も少なく、ゆっくりとあちこち探検できるかもしれない。こう考えると極楽トンボのぼくは、前後の見さかいなく「そうだ京都へ行こう!」である。カタログ掲載用の作品の準備と撮影、パネルの自作やら作品制作で出発間際までジタバタ、重い荷物をもっての京都行きとなってしまった。
 京都市美術館での国際アートフェステバル展は、アンダパンダ的で祭りのサーカス小屋の中のような雰囲気がじつに気持ちがよかった。主催者の意図した総合的インスタレーションが見えかくれしていて、参加して正解であった。手配してもらったBHホテルを拠点に、作家たちとの夜の交流、路地裏探検、美術館巡り、なつかしのジャズ喫茶、滞在予定の12日があっという間に過ぎてしまった。いちばんの収穫は、いつも閉館していてチャンスのなかった、祇園四条通りの何必館・京都現代美術館が開館していて、2日間ゆっくりと収蔵作品を鑑賞できたことである。とくに最上階に陳列されていた良寛の書はすばらしいものであった。
 またまた重い荷物をもって新幹線に乗りこむと、疲労困憊していたぼくは新横浜まで前後不覚に寝こんでしまった。目をさますと、左手の薬指の第二関節から先がチリチリとしびれているのに気がついた。このときには、これが身体の変調を知らせる「最初のシグナル」だったなどとは思いもしなかった。ましてやぼくの狭窄した頸椎管の内側で、靱帯の骨化が少しずつ進行しているなどとは夢々思わなかったのである。


  落車のアクシデント
2005/02/22 (火)

   退院後22日  術後36日
 きのうと同様に晴れ。少し風があるものの陽ざしは春のように暖かい。朝風呂で左手のマッサージと半身浴を約一時間。術前の左手は、肘から先の万力で締めつけられるような痛みとしびれ、触感と温度感覚が鈍く、手首から先は突き指状態のような感覚であった。術後36日目の今は,締めつけられる痛みとビリビリしたしびれはなくなり、わずかに重いような感覚が残っている。手首から先の触感と温度感覚も、かなりもどってきている。突き指状態だった指と手のひらは、なにかに触れなければしびれは感じない。しかし全体にまだまだ麻痺感覚は残っているようだ。
 半身浴で身体も気分もすっかり暖かくなり、散歩がてら左足のリハビリに出かける。途中で三代目ボス猫のブチに出会う。彼は二年間の勢力闘争の末に、やっとボスの座についたばかりである。彼とはまだ折り合いがついてない。そのうち親しく接触したいとは考えているのだが,彼の都合もあるので今のところ実現していない。

(2001年10月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 やっと組み上げたロードレース用の自転車の試運転がてら、マペイの派手派手ジャージとレーパン姿でサイクリングに出かけた。ロードレーサーといっても、べつにレースに出るわけでもなく、もっぱらポタリングやサイクリングが主である。若いころは練習に参加したりしていたが、腰椎間板ヘルニアの手術を受けてからは、自転車の走りの快適さだけを楽しんでいる。なんだチャリかと侮ってはならない。なにしろ百万以上の自転車だってあるからだ。
 川沿いの舗装された遊歩道を走っていたときに左側の靴のクリートとペタルのセッテングが悪いのに気がついて、走りながら調節したのがまずかった。前方不注意で石に乗り上げ大落車。舗装道路に頭部から落ちてしまった。ヘルメットを着装していてことなきを得たが、その衝撃で首から下の感覚が一瞬麻痺して、全身を三波の電気が走った。3分ほどで、まったくふつうの状態に回復した。打ちつけた頭のことよりも、ああ、チャリが壊れなくてよかったなどと、ぼくはのんきにサイクリングをつづけていたのだ。このときにすぐ病院に直行していたならば、もっとちがった展開になっていたかもしれない。これは、あとから思うことで,そのときにはそんなことは考えもしなかったのである。


2005年03月
  お遍路の延期
2005/03/01 (火)

  退院後29日  術後43日
きのうは兄の手術の日であった。ぼくと同じ後方からの椎弓を減圧する手術である。手術予定時間が過ぎても終了の連絡がない。弟と義姉ともども心配していたが,およそ1時間少々おくれで、病棟の処置用個室に入った。先生の説明では、脊髄圧迫による癒着があり,その剥離のための手術に時間を要したらしい。難渋な手術であったが、手術は成功とのことである。兄は、まれにみる癒着しやすい体質だったようだ。3月に入ったとはいえ、風はまだまだ冷たく左手の後遺症がうずく。きょうも兄の様子が気がかりなので,電車とバスを乗りついで病院へ。術後1日目のCT検査の写真を見せていただく。画像でハッキリと減圧されているのが確認できる。機能、知覚検査でも術前よりかなり改善されているとのことで、まずはひと安心。病室は25度と半袖で過ごせるほど暖かい。それにくらべてわが家は7度前後である。自宅療養中の身としてはこの温度差が、なんともつらく、うらやましいところだ。

(2002年3月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   
 昨年10月初旬の落車のアクシデントのあとに,しばらくして小指にもしびれが出てきているのに気がつく。その10月中旬に,世界遺産に指定されている五箇山の相倉集落で個展をすると、友人から案内状がとどいた。数百年を経た合掌造りの室内空間と彼が,どのようなコラボレーションをするのか興味があったし,棟方志功記念館や当時住んでいた住居も移築公開されているので,この訪問もかねての富山行きであった。
 夜行バスでの移動がわざわいしたのか、帰宅して風呂に入っているときに、中指もしびれているのを確認する。その当時にはこのチリチリしびれを、それほど気にしてはいなかったのである。しびれといっても気にするほどのものではなく,ほかはまったく健康だったからだ。そんなことよりも四国遍路歩き旅の資料収集と実行計画に没頭していた。
 歩き遍路といっても、べつに宗教に関心があるわけではない。生家が真言宗なので、お大師様とは多少の縁はあるのかもしれないが。とにかく極楽トンボで暮らしているぼくには,たいしたお願いごともあまりない。せめてこの機会に、他界した父母の供養でもしながら、のんびりと歩いてみたいと考えていた。空海の歩いた道,江戸時代から現在までそれぞれのお遍路さん達が歩いたであろう道。このお四国の異次元空間を、風景のお接待を受けながら、たゆたって歩きたかった。ただそれだけの話なのだ。
3月に入ると大方の準備がととのい、ぼくの頭の中では,四国八十八ヶ所のお寺をおよそ2巡していた。あとは足の鍛錬だけである。出発を4月1日と決めて、1日約10〜15キロを目安にウオーキングをはじめる。3月下旬の朝練のあとに、左のお尻のエクボの奥がキリキリ痛んだ。「座骨神経痛?」しばらくは歩行訓練を中断し,安静につとめることに。遍路への出発を当分延期することにしたぼくは,この一件が、これからはじまる悪夢の四足歩行への予兆だとは知る由もなかった。


  悪夢の四足歩行
2005/03/04 (金)

   退院後32日   術後46日
 目がさめると外が妙に明るい。障子を開けると雪が降っている。およそ5センチは積もっているようだ。ひな祭もすぎたというのに、室温1度は寒すぎるぞ。アラジンの石油ストーブを点けてみたものの、魔法のようには暖かくはならない。毛糸の帽子をかぶり、ベンチコートを羽織っての防寒対策。わが家の春はまだまだ遠いようだ。腰のヘルニア手術後の数年間は、季節の変わり目や寒い日など,腰に重い違和感を感じた。こんどの頸椎手術後でも、きょうのような寒い日には同じ違和感を感じる。とはいえ、左手の後遺症は別として、左半身に脊髄症状があったことを思いださせる程度のものだ。腰の場合と同じように数年間はつづくのかもしれない。

(2002年4月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   
 しばらく安静にしていたせいか座骨の痛みもやわらいできたある日,久しく見なかった庭が雑草に覆われているのに驚いてしまった。春日和の暖かい日だったので,草とり程度なら差し支えはあるまいと草取りをはじめたのである。
 「雑草は自分の心の中の雑草を抜くようにていねいに抜きなさい」これは、ある住職が若いお坊さんに諭した話として何かの本に書いてあった。それを思い出しながらの草取り。だが、お気楽人間のぼくは雑念がいっぱいで心の中は雑草だらけ,そんなことをしていたら、いつ終わるか見当もつかない。とにかく気合いを入れ直して草取りをはじめたのだが,せまい庭にもかかわらず2時間ほどかかってしまった。いざ腰を上げようとしたら座骨に激痛が走る。しかも上体は伸びず,草取り状態のまま固まっている。なんとか家のなかに這いこんだ。
 このときには救急車で病院へなどとはポチリとも思い浮かばなかったのである。病院嫌いのぼくのことだから本能的に避けていたのかもしれない。今まで少しぐらい具合が悪くても、2日も寝ていれば治ってしまったのである。ぼくは自分の自己治癒能力を信頼していた。しかし四足歩行というのは、あまりにも状況が悪すぎる。寝室は二階だし、我が家は段差だらけなのだ。あまり移動しなくてもいい状態にしなければならない。トイレのことを考えて台所に拠点を置くことにした。一階の居間にある押し入れから客布団を引っ張りだして台所に敷いた。
 長びくかもしれないので食料の点検をする。災害用に準備したミネラルウオータ、カロリーメイト、チョコレート、乾パン、カップ麺、レトルト食品、これらを布団のなかから手のとどく位置に配置した。枕元に電子レンジと湯わかしポットを準備して、冷蔵庫にしがみつきながら立ち上がり冷凍庫を確認すると、冷凍パン、温野菜などかなり在庫があるのを見て安堵のためにヘタリこんでしまった。これだけの準備をするだけで、ぼくの両手と両膝はひどい状態になっていた。これだけあれば当分は大丈夫だ。布団にもぐり込んだものの、あおむけに寝れば座骨が痛く,横になれば肩が痛い。うつぶせになれば息苦しく息を吐くのさえ座骨にひびく。トイレに這い出す以外は、およそ3週間ほどは台所に敷いた布団の中で過ごすことになってしまった。まるで獣が群れから離れて穴の中で傷を癒すように…。


  神経痛のお祭り
2005/03/09 (水)

    退院後37日   術後51日
 先週が真冬状態だったことを思い出させるように、庭の日陰には雪の名残りがまだ残っている。しかし陽ざしはもう春の暖さである。久しぶりにモンローウオークで左足のリハビリに出かける。きょうは、なぜか犬の散歩をしている人が多い。ぼくも犬が大好きなので,いずれは犬を飼うつもりでいた。しかし首輪を引っ張られながら歩く姿を見ていると、かわいそうで少し考えが変わってきていた。ウオーキングの帰り道で、マーキングの最中に激しく首輪を引っ張られている犬を見るにおよんで、もうたまらなくなっていた。なにしろぼくは、手術前後のおよそ4ヶ月、首にソフトカラーをつけて不自由な思いをしてきているのだ。もしソフトカラーに紐がついていたらと、考えていたら,エーイ、ぼくはお大師様と万の神々に、金輪際、犬は飼わないとお誓いしてしまった。

(2002年5月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 世間ではゴールデンウイークに入ったというのに,ぼくはまだ台所に敷いた布団の中にいたのである。5月1日メーデーの日に、それは突然やってきた。なんだ、何だ、これは。首から下のぼくの全神経が突然に暴れだしたのである。胸が,腹が,座骨が,膝が,踵と足の甲が,神経痛のお祭りだア〜。ため息さえつけない痛さ。お祭りは6日間もつづいた。その間きちんとした食事をした記憶がない。たぶん枕元に置いたミネラルウオータを飲み,チョコレートやカロリーメイトなど食べていたにちがいない。3日目から神経痛は移動をはじめた。胸から腹に腹から座骨にと,およそ1日で足の踵まで移動した。このパターンが3日ほどつづいた。6日目には4時間で一回転し、2時間、1時間、30分、10分と回転が早まり、7日目には座骨神経痛だけが残ったのである。いま考えてみても、なんとも不思議な体験であった。このような体験など二度としたくない。
 ぼくの痛み度ランキングのベスト2にはランクされるだろう。ダントツのベスト1は、局所麻酔なしのミエロである。ちなみに椎弓形成術による手術は、ベスト10に入るか、入らないかの位置にある。とにかく四足歩行から神経痛のお祭りの終焉まで,避難所生活のようであった。
 この話をあとで聞いた友人や知人は,電話をしてくれれば、何でも差し入れしたのにと言う。これは健常者の言うことである。ぼくは布団の中でうめいていて,電話のところまで這い出す元気もなかった。このときに、ぼくがやっていたことといえば、日本の神々ではチト差し障りがあるので、ヨーロッパの異端の神々と交渉していたのだ。この痛みから解放されるのなら,500円玉預金の全部、あれやこれやと自分の持ち物を担保に交渉を進めていた。痛みの中でこんな馬鹿な遊びで気を紛らせていたのである。神経痛の祭りが終わったあと、座骨神経痛は体重をかけなければ痛さを感じないほどに回復していた。これは異端の神々とぼくの貧しい担保との交渉が成立したわけではあるまい。自分の自己治癒能力のおかげであると、今でも信じている。


  ご隠居さま
2005/03/15 (火)

    退院後43日    術後57日
 先週,術後2ヶ月の検査でCT、MRIを撮った。画像を見た先生は「もうソフトカラーは外してもよいでしょう,順調ですよ」と言ってくれたのだが,いきなり外すと首がカクっと折れそうで心配である。少しずつ外す時間を多くして慣らしてはいるのだが,どうも首筋のあたりがさびしくていけない。退院後しばらくは体調が良かったのに,このところの寒さで絶不調である。べつに痛いとゆうわけではないのだが,脊髄症状が出ていた左半身になにか重苦しいうずきを感じる。きょうのような風の冷たい日には、左手の後遺症の麻痺もピリピリしている。こんな状態をくり返しながら回復に向かうのだろうか、不安である。

(2002年5月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       
 神経痛のお祭りが去ってから1週間後に、くの字状態ながらも二足歩行ができるようになり,家のなかを徘徊するまでに回復した。しかし、左足を踏みこむと左座骨は捻挫したときのように痛く,右座骨もうずき、歩行距離はどうがんばっても20mが限度である。およそ1ケ月あまり家の中で過ごしたので,天気のよい日には家の前の道路に椅子をもち出して日光浴をしていた。ぼくが家にいるのを知って近所のご隠居たちが話しにくる。隣に住む85歳のご隠居と,隣の斜め前に住む89歳のご隠居である。二人とも軍隊経験者で背筋もピンと伸びていて,とてもそんな歳には見えない。
 このごろの、ご隠居たちのぼくへのあいさつは「お年寄りはなにかと大変ですなぁ」しゃれがキツイのである。なにしろ両膝に両手をそえての婆さま歩きでは,なにを言われても甘んじて受けねばなるまい。「ハイ、腰が曲がってしまい難儀をいたしております,まったく年はとりたくないものですネエ」などと不本意ながらもあいさつを返していた。これまでの一件を披露すると,「それは何かのタタリにちがいない,お祓いでもしたほうがよかろう」と忠告されてしまった。タタリって言われても,どう考えても思いつかないのだ。ぼくの反応を見ていたご隠居たちは,こんどはとんでもないことを言い出した。
 「恨みをもつ誰かが,藁人形に五寸釘を打ちつけているのかもしれない」それも女性ではないかと言うのである。ぼくにとって女性は、少女アリスちゃんのように崇め奉る存在であって,女性を泣かせるような非道なことなどとんでもない。などと話していたら、アッサリとぼくの婆さま歩きに話をふってきた。そんな格好じゃ乳母車がいいのでは、との話になってきた。乳母車につかまって歩いている自分の姿を思い浮かべれば、そんな近所のうわさ話になるようなことは・・・。
 「自転車だったら恥ずかしくなかろう試してみろ」とぼくのママチャリを指さした。自転車につかまりながらヨタヨタ歩いていると,突然うしろから気合いが入った。「乗れーッ!」そんなこと言ったってぼくは座骨が痛いのであってそんな。「アレ〜痛くない」ジェル入りのサドルが上半身の体重をしっかりと支えて座骨はまったく痛くないのだ。どこまででも走れそうだ。これで行動範囲は広くなるし病院にも通院できそうだ。町内を一周してきたぼくは、自転車を降りると,婆さまスタイルながら「ありがとうございました」軍隊式に謝意の敬礼をする。ご隠居たちもニコニコ笑いながら返礼の敬礼をしてくれた。すばらしきかなご隠居たちの発想力!ふたたび最敬礼。


  リハビリ依存症
2005/03/18 (金)

  退院後46日    術後60日
昨夜の春嵐はものすごいものであった。そのせいなのか雲はあるものの暖かい春日和である。 このところ休んでいたリハビリがてらの散歩に出かける。きょうはお気に入りの絹のスカーフをソフトカラーに巻きつけて出かけたのだが,これがなんとも具合がよいのだ。色彩の効力なのか気分はハレ状態。ときおりマサイの戦士のごとく両足を揃えてジャンプしたり、じつに快適である。それにしてもカラー本体の肌色はいただけない,フアッション性のカケラもない。せめてカバーぐらいはいろいろとバリエーションを揃えてもらいたいものである。冠婚葬祭用、通勤用、カジュアル用とか、お、ストラップも付けられるようにしたら,おもしろいかも。銀座の歩行者天国でヘルニア症やそうでない人もカラーにいろいろぶら下げて、オーレなどと叫びながらジャンプしているのを想像すると楽しくなってくる。案外と流行るかもしれない。

(2002年6月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜      
 自転車に乗れることを知ったぼくは、自宅から5キロほどのところにある整形外科病院に出かけた。真新しい建物のなかは老人の患者でいっぱいである。リハビリの順番を待つあいだの世間話で盛りあがっているが、おおかたが顔見知りらしい。老人たちにとって,こうゆう場所が唯一の社交場なのかもしれない。名前を呼ばれて診察室に入ると,ぼくの様子を見ていた院長先生は「これは重病です!」と一言。頭のMRIと腰のレントゲンを撮り、ふたたび診察室に。頭のMRIでは後頭部の血流が気にかかるが、とくに異常は見られないとのことである。腰のレントゲン診断は、背骨に狭窄症があり、それが座骨神経痛の原因になっているとの話であった。「1ケ月ほど入院して様子を見ましょう」先生はそうおっしゃるのだが,ぼくだっていろいろと都合があるのだ。それに真新しい建物や病院の経営に思いが及ぶと「家が近いので通院で様子を見ます」と声に出していた。自分では婆さま歩きながらも20mも歩けるし,自転車に乗れば病院までこれるのである。これは重症でもなく,軽症でもない,中症だと?、ひそかに思っていたのである。
 とにかく腰の牽引と電気治療、両腕を交互にあげる滑車を使った器具で5分、マグネット式負荷自転車で10分のリハビリで様子を見ることに。雨と風の強い日以外はほとんど毎日のように通院していたのだが、電気治療や腰の牽引の間はじつに気持ちがよく至福の時であった。これも家に帰ればいつもの痛みがまたもどってくる。およそ2時間ぐらいしかもたないのである。お金もかかるので週2回ぐらいにしようと思うのだが,至福の時の誘惑には勝てそうもない、また、いそいそと出かけてしまう。これではまるでリハビリ依存症ではないか。整形外科病院というのは意外と儲かるのかもしれない。
 背骨の狭窄症が原因で座骨神経通になるというのは理解できる。じゃあ、なぜに狭窄症になってしまったのかが、ぼくにはどうしてもわからない。こんな疑問をもちながらも,およそ1ケ月半ほどはこの整形外科に通院していたのである。忘れていた宿題を抱えているような気分で・・・。


  ボス猫ドン様
2005/03/24 (木)

  退院後52日   術後66日
3年あまり、左足をかばって歩いていた。そのためか、ぼくの左足はすっかり本来の歩き方を忘れてしまったらしい。ふつうの歩き方ではなんとも心もとなく調子がでない。これがモンローウオークだと,じつにリズムよく左右の足が出て調子がよい。しかしぼくには,デユーク更家氏の両手を上に組んでのモンローウオークで歩く勇気はない。せいぜいが両手を腰に当てての歩きが精一杯なのだ。これとて最初は道行く人に笑われていたのだが,見慣れてしまったのか最近はあまり気にかける人もいない。そんなわけで、いまでは心おきなく腰をふりふり歩いている。
 きょうも歩道寄りの白線の上をリズムよく歩いていると,歩道わきの空き地で、猫が、ぼくをじっと観察しているではないか。近づくと三代目ボス猫ブチである。久しく姿が見えなかったが,おおかた縄張りのメス猫たちにチョッカイを出していたのだろう。ぼくが彼をあまり好きになれないわけは、その観察癖と口元にある黒いブチ模様にある。前足を折り曲げ腹を地面につけて,人でも犬でも小鳥でも,じっと観察している。観察学をライフワークのひとつとしているぼくとしては,あまりおもしろくない。それに口元にあるブチ模様は、遠くから見ると皮肉をこめて笑っているように見えるからだ。だから彼の前では歩きのリズムも怪しくなり,ズッコケ気味になってしまうのである。角を曲がるときにふり返るとまだこちらを見ている。あしたからは、リハビリ歩きのコースを変えなければなるまい。

 それにしても二代目ボス猫ドン様は偉大であった。いままで出会った猫のなかでは,このドン様とある事情で飼っていた虎之介の二匹が,伝説的な存在として忘れられない。おおよそ自分は猫などとは思っていなかった節がある。12年ほど前の夏の夜のことであった。もの凄いイビキで目がさめてしまったが、あたりを見回しても人のいる気配がない。これは床下にだれか入りこんで寝ているにちがいないと,懐中電灯と5番アイアンをもち床下に近づいた。灯りに照らされた先には、巨大な猫が腕枕で平然と大イビキで寝ていたのである。これがドン様との最初の出会いであった。
 ドンという名前の由来は,彼は昼寝が大好きでブロック塀の上で寝ているのはいいのだが,あまりの巨体のために寝ぼけるとよく庭に転落していたからである。日が陰ってしまうとブロック塀から1階の屋根に移動するのだが、けっこう失敗するらしく、ぼくは5回ほど目撃している。猫というものは空中で半ヒネリして,四つ足でピタッと格好よく着地するものである。だがドンは重力には逆らえず背中で着地していた。人間だと人前でコケたりするとテレ笑いをうかべながら退散するのだが,ドンは平然と何事もなかったように立ち去る。あるときなど、ぼくの靴の上を踏みつけて歩き去る姿を見て、なんたる貫禄,以来ドンをドン様と尊敬の念をこめて呼んでいたのである。
 わが石蕗庵の庭をトイレ代わりにすることなく床下をねぐらに静かに暮らしていた。ぼくを庭石のごとく無視していたにもかかわらず礼節はきちんとわきまえていたのだ。例のイビキ以外は。ドン様の前世はさぞかし名のある人物だったにちがいない。


  背骨の曲がる謎
2005/03/30 (水)

   退院後58日    術後72日
 このところの低気圧の接近では,左手の後遺症も反応するようにうずいた。日本海側で雪でも降っているのか、きょうの風は刺すように冷たく、やるせないうずきもまだつづいている。先日の日曜日に入院していた兄が退院した。その兄から電話がかかってきた。「手術前の痛みがまったく消えた」と。ぼくと反対の右手の指に後遺症が残ったものの、手術前の状態から考えれば雲泥の差だとうれしそうに話す。とにかく「よくぞ四肢麻痺にならなかったものだ」これが二人の話の落ち着きどころであった。遺伝とはいえ、脊柱管狭窄で後縦靱帯骨化症を同時期に発症し、腰の牽引をしていたのも同じなら、代々木のカイロプラクテイックも同じ。そして同じ病院で同時期に手術、術前の検査で脂肪肝を指摘されたのも同じ。ここまでくると、不思議というよりは考えてしまう。
 あまり遠くない未来のことをぼんやり考えていると、ショートショートの結末のようなフレーズが浮かんでくるのだ。「そして体内時計の終わりのベルが同時に鳴った」まさかそんな・・・。

(2002年7月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 1ケ月半あまり毎日のように通院していたにもかかわらず、婆さま歩きはあいかわらずで、歩行距離が30m増えて50mになっただけであった。この状態を打破するために、病院を変えることを決意する。隣の市にある評判のよい整形外科である。場所もチャリで走り慣れた川沿いの遊歩道を行けば20分で通院できる。こじんまりした医院だが、室内はじつに気持のよい清潔な空間になっている。外も中も花がいっぱいで、これは先生の奥方の趣味らしい。
 初診の手続きをすませてから名前を呼ばれて診察室に入る。こんどの先生はぼくと波長があいそうな予感が。前の病院での経緯を説明してから,腰のレントゲンを4枚撮る。写真を見ていた先生が「完璧な手術です,執刀医は」と、たずねられた。自分の骨をほめられても複雑なのだが,悪い気はしない。
 ぼくの腰の手術をした先生は,腰の手術では名医といわれていたが,すでに他界されている。この先生には術後のリハビリの極意を伝授していただいた。おかげで完治して現在に至っている。
 写真を机の上に置いた先生は「背骨が曲がってますね、そのため狭窄症状になり神経根に触れて痛みが出ているのです」と脊柱管の模型を手にしながら、ていねいに説明してくれたのである。なるほど、狭窄症から座骨神経痛が,背骨が曲がっているから狭窄症になり座骨神経痛へと、病院を変えたことで疑問が解けてきた。しかし、また新たな疑問を抱えることになってしまった。「なぜ背骨が曲がってしまったのか?」この問いには明快な答えを得ることはできなかった。
 リハビリは、腰の牽引と電気治療、それにウオーターベットの自動全身マッサージをすることになった。このマッサージは終わりに近づくと気が遠くなるほど心地がよい。これらのリハビリが効いたのか、月末には連続歩行距離は400mと大幅に延びる。しかし途中で急に動けなくなり、道路に坐り込むこともたびたびあった。両手は膝からはずれて自由になったが、上体はくの字から少し伸びた程度である。婆さま歩きから解放されたものの、座骨の痛さはあいかわらず。お、お大師様この修行はつらすぎます!


2005年04月
  お大師様のお告げ
2005/04/04 (月)

  退院後63日   術後77日
 朝から雨が降っている。「春雨じゃ濡れてゆこう」などと、雨の中をリハビリ歩きに出かけるほど、粋な気分にはなれない。うすら寒いのでコタツにもぐり込んで本を読んでいたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。目がさめると,もう夕方で雨もやんでいる。なんだか頭もボーとしているし、からだは夕食をつくることを拒否しているようだ。こんなときの夕食はスーパーのお惣菜弁当になってしまう。でも、買うにはチョッとしたコツがある。午後の6時を過ぎると2割引、6時半になると3割引、7時すこし前になると5割引になる。しかし、あまり欲をかくと何も手に入らないことになる。じつにタイミングがむずかしい。おなじような思いでタイミングを見ている人たちが多いからだ。きょうはシールを貼る店員の姿が見えると同時に動いたので、中華丼、カキフライ、サラダを半額でゲット。これも節約というよりは、気晴らしのゲーム遊びのようなものである。

(2002年8月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 夏の暑さで汗を流しているのが良いのか、リハビリの効果なのか、連続歩行距離は600mに延びた。座骨神経痛も、山あり谷ありの状態になってきた。つまり、痛みの少ない日が数日はつづくようになったのである。そんなある日,見知らぬ女性から電話がかかってきた。
 美術のキュレータをしているMと自己紹介をしてから,フランスから国際電話がはいり,ぼくに電話をかけるように言われたというのである。話を聞いているうちに事情がわかってきた。国際電話の相手が画家のスイリー嬢であること。ぼくからお遍路行きのことは聞いていたが、その後の顛末を耳にしたらしいのだ。そこで、四国出身で、お遍路の経験がある知人のMさんに。と、なったらしい。Mさんは、お母さんと歩き遍路をしたときの話をしてくれた。それから、ぼくがお遍路にいけなくなったのは「まだお遍路に来る時期ではない」そうお大師様が言っておられるのです。と、おごそかに言ったのである。
 アートの話や京都の話をしてから電話を切ったが。なるほど,「お大師様のお告げ」であれば合点がいく。3月下旬、足の鍛錬を早めに切りあげて、歩き遍路に出発していたならば。たぶん、11番藤井寺から12番焼山寺に向かう、通称「遍路ころがし」のどこかで、行き倒れになっていたかもしれない。白衣は死に装束だし,金剛杖は塔婆がわりで、ぼくとしては理想的な最後とも思えるのだが。昔ならいざしらず、お遍路ブームの現在では、そういう事にはなりそうもない。動けなくなって、ほかのお遍路さんや地元のかたがたに多大な迷惑をかけることは必定。それを考えれば,家で動けなくなったのはお大師様のおかげかもしれない。これも縁なのか、思わぬ展開でお遍路延期の一件が、自分の中で納得のいくかたちで整理がついた。お大師様、これからは、もちっと軽いお諭しでお願いします。


  猫からの手紙
04/07 (木)

 退院後66日     術後80日
 冬の夜に親しかった暗闇は,春先の風の強い日など、なんとも不気味で落ち着きません。私たち猫族もこんな日には夜歩きはひかえております。私にとって石蕗庵のちいさな書斎の床下が、風が吹き込むこともなく、安心して過ごせる唯一の場所なのでございます。
 近頃のツワどのは、楽楽姫からいただいたWeb闘病日記帳をいいことに、文筆家きどりで書斎にこもっております。また例の病がはじまったと,あまり心配はしていないのですが。と言いますのも,先代のドン様から聞いた話では,ツワどのはとてもシャイで、素で何かができるタイプではないそうです。何かをやりたくなると、まず格好からはいる。これは自分の中に、もうひとりの自分を現出させ、その自分にやりたいことを仮託する。つまり、本来の自分ではないので羞恥心や精神的圧迫から解放される。これは一種の「なりきり術」であると、ドン様は言っておられました。それと、まだ術が未熟なため長期間はもたないとも。
 私もドン様から、観察学,夢想学、猫族学,遠隔催眠術,読心術を学びました。みじかい期間でこれだけ会得できましたのも、猫族は自然の時のリズムに身を任せ、たゆたいの夢想の領域で思索できるからです。人間さまは,「猫は昼間から眠っている」と思っているようですが、これは誤解です。哲学的な思索にふけっていると,ご理解いただきたいものでございます。

 ツワどのは,人生の第三幕を「旅人」などと企てているようですが。そのうち、松尾芭蕉きどりで「裏の細道」など書くなどと言い出すのではと案じております。じつを申せば私も旅猫で,海の見える港町への旅の途中,この地でドン様にお会いしたわけです。ドン様は猫族のしきたりに従って,山奥への「死出の旅」に出かける準備をしておりました。石蕗庵の床下に一泊させていただいた恩義もあります。ドン様から「息子がまだ小さいので、後継者に育つまでめんどうを見てほしい」と頼まれては断るわけにはいきません。そんなわけで、旅猫の義侠心からこの土地にとどまっております。昨年の春に,この息子のシマトラを縄張りから追い出しました。と言うより修行に出したのですが、先日フラリと帰ってまいりました。すっかり逞しくなり、もう四代目をまかせても大丈夫のようです。私もドン様との約束を果たしましたので,また旅に出かけるつもりです。
 ツワどのとは、もっと親しくお話をとも思いましたが、似た者どうしというのは案外と近づきがたいのかもしれません。ツワどのの前世は、たぶん江戸時代の「なりきり術をつかう猫」だったにちがいないと睨んでおります。もう夜もふけてまいりました。ツワどのも、うたた寝から目をさますころ・・・これにて失礼します。
                        三代目ボス猫 ブチ拝
  
  


  泣きっ面に蜂
04/13 (水)

    退院後72日   術後86日
 花冷えの雨の日がつづいている。3日目ともなると、さすがに身の置きどころがなくなる。気休めに本などとはならない。なにせ後遺症がうずいて集中できないのである。お気に入りのジャズでも聴きながら、なにを考えるでもなく、思い浮かぶままに思いをめぐらせ、のんべんダラリと過ごすのが、いちばんいいようだ。この3年あまり、精神的にも肉体的にもつらい思いをしてきた。しかしマイナスばかりではない、得たものもある。健康なときには考えもしなかったことだが。ふつうに生活できることが、どんなに素晴しくありがたいことであるかを、自分の体で知り得たことである。なにが大切かが見えてくる。肩の力が抜けて原点にもどれたような気がするのだ。幸せとは,あたりまえの生活のなかに存在しているように思えてくる。

(2002年9月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 リハビリのせいか連続歩行距離は900mに延びた。それと上体も伸ばせるようになり,外見はふつうの姿勢にもどった。しかし左座骨は,歩行のたびに捻挫したときのように痛む。でもママチャリ通院はあいかわらず快調である。残暑が厳しいといっても川沿いの遊歩道は,風が吹いていてじつに気持ちがいい。昨年10月の落車のアクシデントのあった場所を通過して,整形外科病院にあと3キロというところで、スズメ蜂の襲撃にあったのである。すこし疲れたので薮の日陰に腰を下ろして、スポーツドリンクを飲んでいるときに襲われてしまった。どうも巣の近くに坐りすぎたようなのだ。
 二匹のスズメ蜂がぼくの頭と首をめがけて同時に攻撃をしかけてきた。とっさに頭をふり攻撃をかわすと同時に、首をおそったスズメ蜂を右の手のひらで叩き落としていた。その瞬間、手のひらに強烈な痛みがおそう。地面を見るとスズメ蜂はもう死んでいる。彼は勇敢な戦士であった。なんと叩き落とされる瞬間に、ぼくの手のひらに毒針をしたたかにブチ込んでいたのである。すばやくスズメ蜂のそばに目印の棒をさし、第二波攻撃を避けるために、10m先にある自転車まで脱兎のごとく駆け出していた。四足歩行からいまに至るまで、駆け出した記憶がないのに、なぜ駆け出すことができたのか、いま考えても不思議な出来事である。こんな非常時には特別なアドレナリンが出るのかもしれない。自転車のところに戻ったときには、右手はパンパンに腫れあがり、感覚がないのにキリキリ痛んだ。病院に入ると座骨の痛みと右手の痛みで、待合室につづく通路にヘタリこんでしまった。
 手に薬を塗ってもらっていると、先生が、さっきスズメ蜂に刺されて担ぎこまれた患者がいると指さした。見れば、ベットの上で点滴を受けている患者の全身にはジンマシンが出ている。なんでも公園のツツジの刈りこみをしていて、首を襲われたらしい。きょうは「泣きっ面に蜂の日」なのかもしれない。リハビリを中止して帰宅の途へ。先ほど襲われた場所で、目印の棒に用心しながら近づき、スズメ蜂の死骸を塗り薬のビニール袋のなかに回収する。この勇敢なる戦士の屍は、ぼくの小さな書斎の棚の上で,痛みの記憶とともに標本用のガラス器の中に収まっている。


  午前10時の季節
04/19 (火)

   退院後78日  術後92日
 「午前10時の季節」これはエッセイに書かれていたフレーズだと,おぼろげな記憶があるのだが。さて、だれが書いたエッセイなのか,その内容もよく思い出せない。なんとなく紅茶の匂ってくようなフレーズなので、語源はイギリス辺りだと思うが,これも定かではない。とにかく「午前10時の季節」のフレーズだけを、はっきりと記憶しているのである。これは一日の内で、いちばん気力が充実していて頭が冴えているこの時間を,いちばんいい季節と表現していることに感動したからにちがいない。天気のよい日、しかも家にいることが前提になるが,ぼくもこの季節を大事にしている。その時間が近づくとバッハのフルート.ソナタを小さな音で流して,深煎りの珈琲を飲みながら,まったりとすごす。今のぼくにとっては最高に贅沢な時間である。左手の後遺症が多少うずいたとしてもだ。日本でも古来から10時と午後の3時に、お茶休みの習慣がある。頭の冴えている時間と,疲れの出る時間に休みをとる。これも昔の人たちの生活の知恵なのであろう。

(2002年10月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 あいかわらず左座骨は痛いが,耐えられない痛さではない。横になったり椅子に坐っていれば、あまり痛さは感じない。歩行中に動けなくなることや,物をもって歩くのがつらいのは変わりがない。でも、4月や5月の状態から考えれば雲泥の差である。痛さが軽減したぶん、意識の奥にあった左手のしびれの感覚も戻ってきた。そのため、先月から首の牽引も腰の牽引と交互に行っている。症状はこの1ケ月ほとんど横ばい状態で,こんな状況がいつまでつづくのか見当もつかない。これまでリハビリのほかに漢方薬なども飲んでいたが、これが効いているのか否かがさっぱりわからない。薬局の人に「漢方薬はゆっくりと効果が現れてくるので,つづけて飲まれたほうがいいですよ」と、勧められたのだが,なにしろ漢方薬は高価である。つづけて飲むとなれば、病院の支払いとでぼくの家計は立ち行かなくなる。あえなく5ケ月で断念してしまった。整骨院もと考えたが,ポキポキされて、もっと悪化したらと思うと近づきがたい。なにか魔法のように治る治療法はないものだろうか。9月の下旬あたりから、こんな虫のいいことばかりを考えていた。
 「お金がどんどんたまる黄色い財布、ジャンボ宝くじを入れれば当選確率大」こういう広告を見て財布を購入したところで,そうならないことは誰でも想像がつく。しかし「もしかしたら」と考えるのが人間の欲である。4月の四足歩行のときは「なんとか歩けるようになれば」と願い、歩けるようになると「もっと座骨の痛みが軽くならないものか」と願うのである。お金のことなら「水は低い方へ流れ,お金は高い方に流れる」と達観して欲もないのだが、病となると話は別だ。どんどん欲が出てくる。痛みの中で生活していると,なんとか元の身体にもどれないものかと、願ってしまうのである。とにかく先が見えない,病の原因がわからない。これが痛さよりも不安で耐えがたいのだ。なにか「あたりまえの生活」が、とんでもなく遠くにあるように思えてくる。別の治療法に踏み切る時期なのかもしれない。


  脂肪肝とダイエット
04/26 (火)

   退院後85日  術後99日
入院前の検査で、脂肪肝であることを指摘された。そんなに深刻なものではなく,食事療法で経過観察することになったのだが。どうやらお酒を飲まなくても脂肪肝になるらしい。しかも和菓子やケーキなどの甘いものも、なんと脂肪に変化するときいて驚いてしまった。3年あまり運動はもとより、まともに体を動かしたこともない。それなのに食事は健康なときと同じように食べていたのだ。つまり摂取カロリーが脂肪となって蓄積されていたのである。
 理想的な献立と聞かされた内容は,悲しいかなぼくの好物がほとんどはいっていない。入院して気づいたのだが,理想的な献立とは病院食と同じものであった。退院後はよほど体調が思わしくないかぎり,病院の食事と同じような献立で手作りをしている。食事の時間も、なるべく決まった時間にと心がけているが。そのためか、あっさりとダイエットに成功してしまった。なんと10キロの減量である。昨年の春には、標準体重よりも13キロもオーバーしていた。この10年ほどは幾度となく挑戦しては挫折していたのである。それがなんともあっけない。要は必要以上のカロリーは、いらないということなのだ。こんなにかんたんに減量できるとは、目からウロコである。10キロといえば5キロのお米が2袋である。これを腹にぶら下げていたと考えると,よくもまあ、と驚くより感心してしまう。
 現在の体重を維持するためにも,当分は今の献立をつづけるのが懸命のようだ。しかし、あまり制限するのも精神的によくないので、月に一回ぐらいは外食で好きな料理を楽しむことにしている。6月に肝臓の検診を予約してあるので,そのときにはぼくの肝臓がフォアグラ状態からなんとか脱していますように。と期待しているのだが・・・。

(2001年8月〜2002年9月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 どうやら痛みの記憶というものは、なにかのエピソードと一緒でないと記憶できないのかもしれない。それ以外の痛みの記憶というものは,とんと思い出せない。まったく、おぼえていないのである。そんなわけで最初のシグナルから翌年の9月まで、ほぼ1年間の闘病生活をエピソードを手がかりに、なんとか書いてきた。これまでを整形外科編とすれば、あとカイロプラクテイック編、脳外科編とつづくわけだが,やはり同じように書いていくしかあるまい。お気楽人間としては,あまり闘病記らしくなく脱線しながらボチボチ書き進めていくのがお似合いのようだ。
 4月の四足歩行から数ヶ月のあいだは通院以外はほとんど外出していない。したがって、あちこちに不義理をしてしまった。それに展覧会の案内やらパーティのお誘いも、動けなくてはどうにもならない。会場の方角に向かって頭を下げていた。8月には歩行距離も延びたので,東京への遠征を試みた。電車での移動は問題ないが、いかに歩く距離を短縮するかである。目的地にはJRから地下鉄の利用。服装はいつ転んでもいいように、ジーパンと手には白い綿手袋の格好である。8月と9月で4回ほど遠征したが,休みながらであれば大丈夫なことがわかった。これで東京へも通院が可能であることが確認できたが,まだ新たな治療方法への情報は得られていない。


  はじめてのカイロ
04/28 (木)

   退院後88日  術後102日
 窓をあけると、桜の花びらが風とともにはいってきた。山桜も葉桜になっている時期なのに。どうやら花びらは八重桜のようだ。すぎゆく季節をなつかしむように,あわあわと畳の上に舞い落ちる。はやいもので退院してから3ヶ月が過ぎようとしている。でも、左手の後遺症はあいかわらず手強い。神経的なうずきは、何をするにも集中力がつづかず時間がかかる。だから、ぼくの1日は掃除,洗濯、食材の買い出し,食事づくりでおおかた終わってしまう。献立は脂肪肝の関係で、野菜,魚,鶏肉,卵,豆腐などが中心になる。朝や昼はあまり手をかけないが,夕食は少し気合いをいれてつくる。これは、あしたの朝もし目がさめなかったら、最後の晩餐になるかもしれないと思うからだ。とはいえ低気圧の接近ではなにもかも放棄して、ボワーっと過ごすことになってしまう。この調子では梅雨期をどう過ごすかが悩みどころである。

(2002年10月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 10月のはじめに知人から東京の某治療院を紹介された。数日して、ほかの知り合いからも治療院の情報がはいる。スポーツ関係者にも評判で,かなりの実績もあるとの話であった。しかし症状によっては効く人も効かない人もいるらしい。それだけ人間の身体は個々によって微妙にちがうのかもしれない。でも、ぼくは新たな治療法を模索していて藁をも掴みたい心境である。さっそく予約の電話をいれる。指定された日時に治療院のはいっているビルを訪れると、看板がないので通り過ぎてしまった。引き返してよく見ると、事務所の入り口のような素っ気ないドアの横に、ちいさく書かれているではないか。なにか秘密っぽくていい雰囲気だ。
 中に入ると長椅子に先客が坐っている。診察待ちのあいだ,置かれていたパンフレットを読んでいると「頭蓋仙骨治療」と書いてある。なんとなく字の感じから,以前から思っていた魔法のような治療方法にピッタリではないか。治療室に入りこれまでの経緯と症状を説明する。先生はカルテに記入してから,ストレッチャーに乗るようにうながした。左右の足の長さ,両腕の状態,首の上部を左右に動かし触診する。治療台に移動して横になり,両足と首への手による触術治療。つぎに腰掛けて、両肩から腰にかけても同様な治療を施す。あわせて20分の治療は,まことにていねいで手際がよい。対応は親切で好感がもてるし気分的にはハイなのだが、座骨の症状の方はあまり変化はない。週に1回の治療で様子を見ることになる。帰宅して知り合いに電話をかけると「治る人は1回でも,まあ2.3回も通えばバッチリ」との話であった。この治療院には6回ほど通ったのだが、座骨の症状が変化するきざしはない。どうやらぼくは効かないほうの部類にはいるようで、ここでの治療を断念することにした。
 なにやら馬券を外したような気分だが、そんなに悪い気分ではない。ビルの地下食堂の焼き魚定食は絶品だったし、少なくとも1ケ月半は治ることを夢みてこれたのである。「こうなりゃなんでも体験してやろうじゃんか!」と肉体的にはヘロヘロ状態なのに、気持ちだけは妙にハイになっていた。


2005年05月                                     
  あやしい話
05/04 (水)

  退院後93日   術後107日
入院をする15日前から禁煙をはじめた。全身麻酔がさめてからタンが出て,とても苦しいと聞かされたからである。そのためかどうか麻酔がさめてもタンはほとんど出なかったし,入院中に煙草を吸いたいとは一度も思わなかった。退院してからも1ケ月半ほど禁煙がつづいていたのだが、3月中旬の低気圧の接近であえなくジ、エンド。後遺症のやるせないうずきや、首と肩の重い感覚を癒すには煙草が、と考えたのがまずかった。それまで低気圧の接近以外は体調が良かったのに、慢性的なものになってしまった。4月にはいってから完全禁煙を決意する。近くにある自動販売機から13種類の煙草を買ってきた。煙草と決別するセレモニーである。好みの煙草から順にマジックで日付をいれる。最後に吸った煙草は強くてまずい味がした。そのせいか4月14日にはスムースに禁煙のスタートがきれたのである。今のところ順調だが、また別の気晴らしも考えなくてはなるまい。

(2002年11月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 なじみの本屋の奥さんから、耳よりな情報が聞けた。奥さんの親戚の人の体験談である。両手の腱の障害で、手術をしなければ両手の指が動かなくなる。と複数の病院で診断され、手術を決意して入院予約をしてきた。そのあと知人から、とてもよく効くカイロがあると紹介されたらしい。ダメモトでと入院予約をキャンセルし、そのカイロに通院したところ完治してしまったとの話である。どんな治療法かと聞くと,ナント「まったく無痛で約1秒」という治療らしい。まるで魔法のような治療法ではないか。ふむふむ、ますます話があやしくなってきた。ぼくはこういう話には弱い,そして大好きなのである。親戚の人というのは、奥さんの娘さんの嫁いだ先のお姑さんとのことである。これは信用できる話と思ってよいだろう。うむ、興味をそそられてくる話だ。ぼくはもう心の中で,そのカイロに通院することを決めていた。治療費を聞くと,初診は1万円だが次からは6千円。また通院は1ケ月か1ケ月半に1回でよいらしい。ぼくの懐具合を考えれば、じつにありがたい治療法のようである。奥さんは「知り合いに話すけど、あまり信用してくれないのよ」と笑いながら話す。まあ、ふつうの人ではマユツバの話としか聞こえないのは無理もないか。
 そのとき向かいのクリーニング店のおばちゃんが、話に加わってきた。「私も奥さんの紹介で通院したら、病院で治らなかった腰と膝が完治した」と言うではないか。実際に体験したおばちゃんが目の前にいる。ぼくは、いろいろと質問したのだが要領を得ない。それほど不思議な治療法なのかもしれない。ハッキリしているのは4回の治療で完治したという事実だけである。実際の治療時間はあわせて4秒たらず、この世にそんな治療法が存在するのだろうか。奥さんと,おばちゃんは「首をいれる」とか話してるけど,謎は深まるばかりである。カイロプラクテイックの電話番号と場所をきき、帰宅してから電話をいれると、数日後の予約がとれた。予約の当日まで、ぼくは「あやしい話」の治療のことをあれこれ考えながら,想像してはワクワクしていたのである。


  筍パーティ
05/05 (木)

   退院後94日  術後108日
 朝から爽やかな五月晴れ、天気のように、からだも快調である。左手の後遺症のうずきや首から肩のコリも、きょうはどうやらお休みらしい。気分よく午前中にサクサク家事をすませて、迎えの車を待つ。友人のデジタル職人ガモさんから、翔青館の筍パーティに出席するなら迎えにいくと、昨夜メールで誘っていただいたからである。
 パーティに顔を出すと、館の主マクォット氏や顔なじみの皆さんから、お見舞いのお言葉をいただく。しかし数年ぶりだというのに、やけに皆さんぼくの病状にくわしい。「闘病記みてるわよ〜」と歌人のレイコさんに言われてしまった。同じように、アチコチから声がかかる。アレマ!内緒にしてたのにバレバレ。どこかのHPにリンクされていれば、アッと言う間に知れわたるらしいのだ。知らぬは本人ばかり。アナログ人間としては、ただ、ただ驚くばかりである。
 庭園のテーブルには持ちよりの料理や飲み物。土間のお勝手で腕をふるう、総料理長の建築家たけちゃんの創作料理がところ狭しと並ぶ。お釜で炊いた筍ご飯は絶品だし、皮付きの筍を炭火で焼いたのを、フキ味噌ダレや酒醤油でいただくのも美味であった。うまそうなワインとビールが誘惑するが,後遺症のうずきを誘発する導火線になりかねない。クワバラ、クワバラ。ガモさんの出店した中東式喫茶店の珈琲をいただくことにする。時間をたっぷりかけたドリップのマンデリン、さすがにガモマジックだ、うま〜い。
 パーティに開放されている館は大正時代に建てられた診療所の建物で、当時のままに手を加えることなく維持されている。現在はアーティストに提供されており、内外の芸術家がお世話になっている。流浪のクルド人画家マドハット,カケイ氏もこの館からデビューした作家である。この館内や庭園のお好みの場所で子供からお年寄りまで、それぞれにパーティを楽しんでいる。
 前の席では、スーツ姿の老紳士が若い女性を相手に,4ヶ国語で喋りまくっている。ときおりギターを取り出してはビートルズ、ナンバーを唄っているのだが・・・タモリも顔負けのこの人物は何者なのか。ときどき謎の人物が出没するのも、このパーティのおもしろいところである。やがて長尾室内楽団のコンサートがはじまった。室内で演奏されるモーツァルトを外で聴くのは初体験である。室内から流れるモーツァルト四重奏曲は、5月の風にのって、からだの中を通り抜けていく。ごちそうと音楽と5月の風、ほんとうに癒された午後の時間であった。
 夜のお客さんが訪れるころに、ぼくとガモさんはおいとますることにした。庭園の灯りに浮かびあがる翔青館は、幻想的で見る者を大正ロマンの世界へといざなう。建築家マクォット氏のポリシーは、竹林に囲まれた庭園の一角に鎮座している1960代のワーゲンにも見てとれる。これは数十年も動くことなく、館と向き合うように置かれている氏の愛車である。時の過ぎゆくままに朽ちていくものたちの美学。あまたの時間がつくりだす現在進行形のオブジェを前にすれば、言葉もなく、ただ脱帽して頭をたれるのみてある。


  まじめな話
05/12 (木)

     退院後101日   術後115日
(2002年11月)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「あやしい話」のカイロへ行く日がやってきた。前の経験から、手袋はボチボチの付いた紺の軍手に。スニーカーもグリップ力がよくてクッション性のよいものに替える。これにパーカ、ジーパン、デイ.パックの完全装備である。これで、どこで坐ろうが、寝転がろうが問題ない。もより駅の代々木に着いたのは、予約時間の1時間前であった。ここからカイロまで歩いて4分と聞かされていたが,途中で4回ほど歩道の縁石に坐り込んだので,20分もかかってしまった。
 カイロは医院というより、欧米風の一般住宅の構えである。待合室に入るとサロン風の雰囲気。坐り心地のよさそうなソファーと欧風家具が置かれている。カルテの調査書類に記入したあとに、カイロ治療についてのビデオを観るように指示された。この20分あまりのビデオを観ながら、ホントかな〜と思いながらも,なにか妙に論理的なところに「ガッテン、がってん、合点」と、ぼくは何度も膝を打っていた。二足歩行の人間は重い頭を頸椎で支えている。我々は仕事やスポーッで少なからず頭に衝撃をうけており,これが起因となり,頭と仏の座と言われる頸椎1番がズレて、首の神経を圧迫したり,身体のバランスを崩す原因となっているらしいのである。
 ビデオのあとに測定室に入り、上半身裸で神経状態を測定する。次に姿勢の検査。目盛りのある透明アクリル板の裏に立ち,うしろ向き、移動して横向き、椅子に座って正面を測定して終了。ストレッチャー上で足の長さ、両腕,首の触診をして治療前の検査がすべて終わる。このあとに測定結果についての、ていねいな説明があった。座骨の上から頸椎上部までの神経状態のチャートは、健康な人はフラットな線になるらしいのだが、ぼくのものは,かなりブレブレのひどい状態である。それにぼくの頭は左前方にズレていて,その重心の狂いを自身の背骨を曲げることで,なんとかバランスを保っている状態らしいのだ。なるほど,これで「背骨の曲がる謎」が解けた。いよいよ「あやしい話」の治療である。
 仮眠室前の治療台に,左横向きの姿勢で寝る。先生がぼくの頭の乗っている部分を、カチャカチャと上にセッテングし、頸椎の1番あたりを指で確認しているのが感じられた。やがてその部分を手のひらで押さえ,もう一方の手で押される,と同時にガチャっと頭の位置が元にもどる。まさに無痛で1秒の治療であった。その状態で5分ほど過ごし,仮眠室のベットに移動して約1時間の安静をとる。クラシック音楽が静かに流れているので5分ほどで眠ってしまった。起こされてから、また神経状態を測定して,最後に先生からお話がある。この頭を元の状態にもどす治療は,ぼくの自己治癒能力と密接な関係があるらしい。だから1ケ月以上のあいだをあけた治療となるのである。仮眠後の測定チャートはたしかにブレが改善されている。かなりズレているので時間はかかるが,座骨神経痛は治るとの話に安堵した。数値的な説明には納得できる。
 とにかく「あやしい話」は「まじめな話」であった。この治療を言葉で表現するのはむずかしい。やはり体験しなければわからない。それほど不思議な治療法だったのである。


  続 猫からの手紙
05/16 (月)

  退院後105  術後119
新緑が目にも心よく,さわやかな風も私の旅立ちをうながしているようです。猫族は濡れるのがあまり得意ではありません。そのためには梅雨期に入る前に,なんとか港町にたどり着きたいので,あしたの早朝には旅立ちます。石蕗庵にわらじを脱いでから,もう2年半が経ちます。猫時間ですと約13年にもなり、かなりの長逗留になってしまいました。
 ドン様の息子シマトラも人間でいえばもう22歳です。四代目ボスとしては、まだ若いように思いますが,大丈夫です。と言いますのも、縄張りのオス猫は、ほとんどがオカマちゃんだからです。人間さまは、むかしは猫の手も借りたいなどと申しておりましたが,最近は暇になったせいか、猫に手を貸してくるようになりました。まったく、ありがた迷惑な話しです。ノラ猫が増える元凶はオス猫と思われているらしく、捕獲器で捕まえては玉抜き手術をしているらしいのです。飼い猫が避妊や去勢の手術をされているのは聞いておりますが,まさかノラの世界まで手が及ぶとは,シマトラにはボランティアおばさんの特徴や,捕獲器の仕組みなど細かく説明してあるので、まず問題はないと思いますが。
 猫の世界も受難の時代に入ったのかもしれません。言わせていただければ,欲求不満はどうか別のことに振り向けていただきたいものでございます。古来より猫族と人間さまとは、付かず、離れずの関係でした。犬は人に猫は家に付くと言われていたのは昔の話し,今では必要以上にスリスリしているようで、見てはいられません。犬も顔負けで、嘆かわしいかぎりです。
 こんなことを愚痴る私は、もう古い猫なのでしょうか。それに猫の本能的なものを失わせているのは,どうもネコフードやネコ缶のような気がしてなりません。「ネコ元気!」は、やはり自然のものを自然のままに食するのが一番のようです。うわさでは九十九里海岸のイワシの丸干しが美味と聞いておりますので,今からもう楽しみにしております。
 ツワどののモンローウオークが、もう見られなくなると思うとさびしい気がいたします。ずいぶんと笑わせていただきましたから。失礼!。それにしても二足歩行は、いろいろと大変のようですね。重い頭を細い首で支え,その上半身を腰で支えているわけですから,不都合が生じない方が不思議というものです。少なくとも四足歩行から二足歩行への進化の段階で、頸椎が7個から1個に進化していたならばと、ご同情申し上げます。私が猫視線で観察したところでは、中年以降の人でまともに歩行してしているかたは稀でございます。ほとんどが前後左右にヨレテ歩いております。お気の毒なのは、ご本人がそれを自覚していないところですが。そんな姿勢でのウオーキングは、健康どころか体を壊す原因にもなりかねません。ツワどのにはリハビリウオークや日常生活でも,常に体の重心を意識して行動することをお勧めします。もう、お目にかかることもないでしょうが、かげながら、ご回復をお祈りしております。いろいろとお世話になりました。それでは・・・。
             三代目ボス猫 ブチ拝


  退院後の大凹凹
05/27 (金)

  退院後116日  術後130日
 このところの天候不順で、体調も術後では最悪の状態となる。後遺症の左手のしびれも、目ざめたように強くうずきはじめた。それと強烈な肩コリ症状にはまいってしまった。首から左肩にかけてバリバリにコリ固まっている。指で触れてみると筋肉のカチカチ状態が確認できるほどである。それと肩コリが酷くなると、頭痛、目眩、吐き気などの症状が出ることもはじめて体験した。とにかく同じ姿勢を5分もしていられないのである。これがなんともつらい。横になったり,椅子に坐ったり、家のなかをワオ〜などと叫びながら歩き回っていた。昼間に体を疲れさせないと、夜になってから眠れないからである。こんな状態が2週間以上もつづいている。
 雨の日は仕方がないが、晴れていれば外出するようにしていた。じっとしていると神経が首と肩に集中してしまうので、神経をほかにそらせるための手段である。近所の奥さんたちとだべったり、友人や知人の展覧会に出かけたりしていた。左半身ヘロヘロ状態なのに、人前だとミエを張って、平然と談笑しているから、自分ながらあきれてしまう。それでもだれかと話していれば、意識が話しのほうへ向くせいか,そのあいだは肩コリの痛みを忘れられるのである。しかし、そのほかの時間は否応なく症状と向き合うことになる。
 どんな感じの痛みかと、よく聞かれたが、ぼくにはうまく説明できないので「ワオ〜と言う感じです」と答えていた。こんな理不尽な痛みに対しては「ワオ〜」と吠えるしか手がないからである。薬局で勧められた肩コリ用の温感シートを4袋も貼ってみたが、あまり効くような気配もない。これじゃあ千円札4枚貼った方が効くゾ〜などとグチも言いたくなる。
 暖かくてチョッと凹程度の体調だった先週の土曜日に、友人の画家 F君が車で迎えにきた。庭のデザインのアドバイスを、と以前から頼まれていたのである。久しぶりの訪問であったが、部屋に通されてビックリ。以前の面影がないほどに改装されていた。外観は洋風だが、内部は和風モダンの広々した空間になっている。壁際には古民具の階段箪笥、水屋、重厚な飾り棚が置かれ、そこには、ご夫妻で蒐集した骨董品が見事なレイアウトで飾られている。雑誌「美しい部屋」で紹介されたのもうなずける。リビングに置かれた蔵の引き戸だったという座卓で、珈琲をごちそうになりながら庭を眺めていると、なるほど違和感がある。庭もこの部屋の一部と考えた方がよいとか、庭への視線のアプローチとしての濡れ縁など、いろいろ思いついたことをアドバイスする。少しでも参考になってくれればいいのだが。肩コリがひどいと言ったら、奥さんがエレキバンを首と肩のツボに貼ってくれた。ゆっくりと効いてくるらしい。ランチや夕食までごちそうになった上に、お礼や自家製パンまでいただいて恐縮してしまった。これは闘病見舞いを兼ねたお接待であろうと、ご夫妻の心遣いに感謝である。磁力反応体質なのか、優しい奥さんが貼ってくれたエレキバンのおかげで、重症の肩コリもかなり回復してきた。これでどうやら大凹凹状態から脱出できそうである。



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